石碑顕彰札(全件)

更新日:2020年04月23日

 市内各所に所在します文化財を紹介した石碑・顕彰札を紹介します。市内を散策のおり、見かけましたら、足をとめてみてください。摂津市の昔に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。  

石碑設置一覧

  • 流れの馬場跡
  • 弥栄の樟 
  • 鳥養牧跡
  • 黒丸城の址
  • 離宮「鳥養院」跡 
  • 囲み堤(鳥飼上) 

顕彰札設置一覧

  • 蜂塚
  • 不動明王立像
  • 防風庵跡 
  • 条里制
  • 明和池遺跡
  • 子安地蔵 
  • 味舌天満宮
  • 伏越樋門跡
  • 神崎川の分岐点跡 
  • 宮の下渡し跡
  • 恵照院殿釈寿栄童女の墓碑
  • 三ツ樋 
  • 三本松神社跡
  • 鳥養の渡し跡
  • 宗慶島跡 

蜂塚 摂津市千里丘3丁目10 顕彰札

 応仁年間(1467~68年)のころ、この土地一帯に盗賊が出没し、村人たちに悪事をはたらいた。村人たちは盗賊と戦い何とか追い払おうとしたができなかった。そこで、金剛院の本尊に盗賊追放の祈願をしたところ、本殿から数百匹の蜂が群れをなして飛び出し、盗賊たちに襲いかかった。それ以後盗賊たちは姿を消し、村は再び平和をとりもどしたと伝えられる。

 その時、戦って死んだ蜂を埋葬し供養塔を建てた。それがこの蜂塚である。また、これを機会に寺号を蜂熊山蜂前寺と改めた。

蜂塚の顕彰札の写真

不動明王立像 摂津市千里丘3丁目10 顕彰札

 護摩堂の本尊であり、この像は寄木造りの等身像で摂津名所図会にも載せられていて、古来著聞のものである。弘法大師の所作と伝承せられているが、その手法からみれば、年代はそれよりもくだって、平安朝時代後期のものと推定される。

 多少の補修部分はあるが、稀に見る優秀の古像として、昭和45年2月20日大阪府教育委員会から、大阪府指定有形文化財に指定された。

不動明王立像の写真

防風庵跡 摂津市千里丘東1丁目 顕彰札

 天文22年(1553年)、三宅城が香西元成に攻められた折り、難を逃れるため、城主三宅出羽守康阿比丘尼、高橋政元の長女が春慶尼と名を改め出家した。暫く東寺にいたが、元亀3年(1572年)に嶋下郡の辻垣地(乙辻)へ引越し、「防風庵」という草庵(草ぶきの小さな家)を建てた。草庵を「防風庵」と名づけたのは、その名の通り敵を防ぎたい、さえぎりたいの一心を庵に託したものと思われる。

 天正19年(1591年)に康阿比丘尼が慶長元年(1596年)に春慶尼が亡くなり防風庵の仏門の営みは次第に衰えていった。

 なお、「防風庵」の阿弥陀如来像は勝久寺に置かれている。

流れの馬場跡 摂津市千里丘東3丁目1 石碑

 元亀元年(1570年)から本願寺と織田信長が戦った石山合戦で、本願寺の末寺である勝久寺の住職頓恵は、摂津・河内・和泉の僧俗数千と、石山本願寺にたてこもった。

 天正8年(1580年)3月17日に本願寺と信長は和睦した。同年4月9日、顕如の石山本願寺退去にともない戦いに加わっていた住持・門徒も帰村した。

 安堵の思いで法義談合を行っていた5月28日、不意に信長軍に襲撃され、堂舎を焼き払われたうえ、多数の門徒たちが捕らえられて殺害されたという。

 そのため、あたり一面は血の海となったので、寺の前方を流れる境川を「流れの馬場」の古戦場と今に伝えている。

流れの馬場跡の石碑の写真

弥栄の樟 摂津市千里丘東5丁目3 石碑

 天保14年(1846年)9月の嶋下郡味舌郷の図面で金剛院持。と記されている弥栄の樟は、当時この付近も金剛院(千里丘3丁目)の一部であったことを物語っている。かつてはこの地に藤の木八幡神社(中内八幡宮)の社があり、中内八幡宮の歌をうたいながら参詣する人も多かった。

 この八幡宮も明治45年4月、須佐之男命神社に合祀されたが、その当時からひときわめだったのがこの樟である。聖武天皇の天平年間(729~748年)植樹という伝承があるが、昭和初めに味舌村では「弥栄の樟」と命名し、命名式には芸人を呼び寄せて披露しこの樹を厚く保護した。

 この樟は平成元年4月大阪みどりの百選選定委員会において「大阪みどりの百選」の一つに選ばれた。

弥栄の樟の石碑の写真

条里制 摂津市千里丘東4丁目1 顕彰札

 条里制とは古代(7~8世紀)におこなわれた土地区画整理制度のことである。この制度によると当時東西南北六町(約654メートル)の間隔で土地を正方形に区画し、六町四方(約42ヘクタール)の面積の土地を里と呼んだ。また、この里の各辺を六等分し、合計三十六の四方形の土地に分け、この一町四方(約1.2ヘクタール)の土地を「坪」といい、当時は坪単位に分かれていた。

 その名残は、かつて坪井村という地名があったことから推察することができる。摂津市域の坪井付近(千里丘東4丁目)は、旧嶋上郡・旧嶋下郡と展開されてくる三嶋条里の方向が転換する地域であることが知られている。坪井以西の条里は西へ33度方位を変えており、西方の吹田市域へ展開する条里の起点となっている。

 この付近から六個の石が発見され「坪境石」・「けんか石」とも伝えられている。条里制の遺構の近くには石組の水門を見る例が多い。これらの石は境川沿いに並んで埋められていたもので境界領域を示すとともに、水利のために利用された石であるといわれている。

子安地蔵 摂津市庄屋1丁目3 顕彰札

 子安地蔵の木像で、今から千年以上前に造られたと伝えられている。以来、人々は、安産を祈ってこの地蔵尊を信仰してきた。

 また、この社の中には「子安地蔵」とともに銅製の「釈迦誕生仏」「五輪塔」の一部(応仁二年-一四六八年と刻印がある)および「珂雪童子の像」などがまつられ、現在に至るまで多くの厚い信仰をうけている。

子安地蔵の顕彰札の写真

味舌天満宮 摂津市三島3丁目9 顕彰札

 奈良柳本藩織田大和守尚長は当地味舌生まれで、織田信長とは十三歳違いの弟である織田有楽斎長益の五男でもあり、寛永12年(1635年)に現社殿(本社本殿及び摂社八幡神社殿)を造営した。本社本殿と摂社八幡神社本殿は細部の様式すべて同一であり擬宝珠銘も全く同じである。

 正面の柱の間が一つしかない一間社流造で、檜皮葺屋根の庇に沿って付けた板「破風」に特徴的な装飾が施されている。蟇股や木鼻の絵様など変わった形ながら古風。庇木鼻の獅子頭など江戸前期の典型といえる。

 本社本殿と摂社八幡神社本殿は平成5年11月24日に大阪府指定有形文化財に指定された。

味舌天満宮(本社本殿)の写真
味舌天満宮(摂社八幡神社本殿)の写真

伏越樋門跡 摂津市東別府5丁目4 顕彰札

 慶安4年(1651年)高槻藩主永井直清は、安威川の川床が高くなり排水が困難になったため、それまでもっと上流で安威川に直接放流していた鳥飼の悪水(灌漑の後の不用水)を、当時としては高度な技術を駆使して悪水抜樋を別府に構築する。これが伏越樋であり、安威川を潜って吉志部村(吹田市)まで井路(排水路)を延長し、神崎川に落とすことに成功した。

 その後も悪水を除くために幾度かの改修が行われ、とりわけ天明6年(1786年)大改修が行われた時の樋門は大正5年に神崎川に放流する樋門工事の完了するまでこの土地の稲作に大きく貢献した。

神崎川の分岐点跡 摂津市一津屋2丁目2-18 顕彰札

 古代から淀川は流域住民に恩恵をもたらすと同時に、洪水という恐怖をも与えた。平安時代初期に編纂された「続日本紀」には、桓武天皇の延暦4年(785年)に「使いを遣わして、摂津国神下・梓江・鯵生野を掘りて、三国川に通ぜしむ」とあり、淀川と三国川をつなぐ新河道(旧神崎川)が開削された史実が認められる。鯵生野は、現在地名として残る味生のことで、別府や一津屋付近を指す場所であると考えられる。

 分岐点は一津屋から江口(大阪市東淀川区)にいたる間を北流して別府浜にいたり、安威川に沿って流れていた。しかし、その後も水害がたびたび起こり、治水の問題は宿命的な自然と人間との戦いとして、地域住民を苦しめた。明治11年につけかえ工事(直川化工事)が行われ、その後数回の淀川築堤工事が進められ、神崎川の水量調節と舟運のためのこう門が明治38年に完成した。

宮の下渡船跡 摂津市一津屋2丁目2-8 顕彰札

 宮ノ下渡船場は、河内大庭大と摂津嶋下郡一津屋村宮ノ下を結ぶ淀川渡船場で、戦国時代末の永禄年間(1558年~69年)から存在したと伝えられており、川幅約600メートルの渡しであった。宮ノ下の小字名の駒頭から「駒頭渡し」とも呼ばれていた。

 昭和29年に日本で最初の有料橋である鳥飼大橋の完成によって姿を消したが、鳥飼の渡しとともに、摂津と河内を結ぶ交通上の重要な役割を果たした。

恵照院殿釈寿栄大童女の墓碑 摂津市一津屋2丁目6 顕彰札

 元禄13年(1700年)6月、松平縫殿頭乗成が大坂城へ赴く途中息女の急逝にあい誓源寺(浄土真宗本願寺派)にほうむり、墓碑を建て菩堤所として丁重にとむらった。宝暦2年(1752年)菩堤供養のため、松平家より藤原国次鋳造の梵鐘と鐘楼が寄進され、梵鐘は第二次世界大戦中に供出されたが、鐘楼堂は現存する。

 この墓碑にまつわる後日談がある。天明5年(1785年)松平下野守と松平縫殿頭の玄孫(孫の孫)兵部少輔乗友が墓参した時、付近の田が一面に水をかぶっているのに不審をいだき、そのわけをただしたところ排水不良のためとわかり、幕府の許可をとって排水(井路)を開削したので稲作が安定した

三ツ樋 摂津市鳥飼野々3丁目28 顕彰札

 昔から鳥飼農地帯(約400ヘクタール)は大雨になると淀川右岸低湿地の悪水を集中的にうけてきた。大雨のたび一帯は湖のようになり、村人たちは農地を悪水から守るため越石米の負担などたいへんな苦労を重ねてきた。この悪水を排除するための治水事業は、慶安4年(1651年)に始まり、大正11年に「三ツ樋」の改築、昭和2年に悪水路の改修が行なわれてこの事業は一応の解決がみられた。

 「三ツ樋」というのは、その悪水の排除路の総称であり、その悪水路とは

  1. 字実正~六反田~三ツ樋(大井路と呼ぶ)
  2. 八町井路~枝切~三ツ樋
  3. 猿子田~三ツ樋(中井路と呼ぶ)
  4. 五久~野々~三ツ樋
  5. 西字構之口~八防樋の五つである。

 ここから集まってきた悪水を樋の長さ15間(約27メートル)、敷幅4尺(約1.4メートル)、高さ4尺5寸の樋門4ヶ所から放水し、鳥飼悪水井路から摂津市別府、吹田市岸辺を経て神崎川に流していた。それでもなお、悪水排除が不完全であったため、大形水車4台を人力で動かすなどの苦労はなみたいていではなかった。(悪水とは灌漑の後の不用水。) 

三本松天神社跡 摂津市鳥飼西1丁目14-57 顕彰札

 延喜元年(901年)正月、九州の大宰府に左遷された菅原道真が赴任の途中、鳥飼の地に船を着け食事の後自ら楊枝松を植え、この木が生育することを願って神社を建立したと伝えられる。「摂津名所図絵」には「管公筑紫御下向の時ここに船をよせ給ひし旧跡なり。 この村に下り松、義経松、踊り松とてあり」と記されている。

この三本の松から、神社の名が起こったとされている。

 昭和36年の淀川堤防改修で境内が削り取られ、鳥居だけを残すのみとなったがそれも昭和58年10月に別府1丁目の中真神社に一部補修し、移転された。

鳥養牧跡 摂津市鳥飼下3丁目26 石碑

 延長5年(927年)に完成した「延喜式」では、当時の牧は三種類に分けられていた。皇室の科馬を供給する御牧(勅使牧)、兵馬・用役牛の飼育を目的とする諸国牧(官牧)、および都(京都)の周辺に設けた近都牧である。当時牛馬は、ひき牛や乗馬用として多く利用され、特に都では大宮人にとって牛や馬は欠くことのできないものであった。

 鳥養牧は六牧あった近都牧の一つで諸国から運ばれた牛馬を飼育し、必要に応じて都にひいてこさせるために設けた牧である。

 この牧が現在どの範囲に広がっていたかはっきりしないが、馬島(淀川本流にかってあった島)・本牧(字名)・五久 「御厩」(字名)などという地名の名残から、ほぼ現在建っている石碑を中心としたあたりと思われる。

鳥養牧跡の石碑の写真

鳥養の渡し跡 摂津市鳥飼下3丁目29 顕彰札

 この渡しは、大正時代の中頃にそれまで別々に運航していた「治歩多渡し」と「願正寺渡し」が合併してできたので地域の人達によく利用され、親しまれた。

 古くは、慶長19年(1614年)片桐且元が、大坂冬の陣を前に家臣とともに大坂城を退き茨木城(茨木市)へ入った。その時に、この鳥養の渡しを利用したと伝えられる。

 その後、徳川幕府は寺社奉行に管理させ許可制とした。

 明治以降は民間運営され、昭和8年に大阪府の管理運営となった。そして、昭和29年の鳥飼大橋の完成及び昭和50年淀川改修工事に休航し、淀川最後の渡しとなった。

黒丸城の址 摂津市鳥飼中2丁目1 石碑

 黒丸城(鳥養砦)は、土石を積み重ねて築いた小城であったらしいが、その築城の時代や由来についての詳細は不明である。しかし、「細川両家記」にみえる次のような記述は、当時この辺りに何らかの城塞的構造物のあったことをうかがわせる。

 同四日に三好方の衆は天王寺迄諸陣くつろげられ候、五日に鳥養へ帰陣也。(永禄二年<1559年>8月)

 同じ十二に諸軍敗軍して始め陣所天満森へ被引退候…然処に鳥養辺にて御談合あり。(元亀元年<1570年>9月)

 また、字地に黒廻・城の前・内殿・地殿などの名前があることから、黒丸城にゆかりの深い土地かと思われる。

 いずれにしても、本城(砦)は淀川べりに築かれた平城であって、大坂方面攻撃の際の前線基地の一つとしての機能を濃厚にもった城郭であったと思われる。

黒丸城の址の石碑の写真

囲み堤 摂津市鳥飼上1丁目5 石碑

 淀川流域は、昔から長雨や豪雨になると河川は氾濫し、人々は洪水から稲作を守る戦いをくりかえした。集落の境には「繩手」と呼ばれる道路を兼ねた小堤防があって輪中を形成していた。

 慶長元年(一五九六年)豊臣秀吉は、大規模な淀川堤防修築を諸国の大名に命じ「慶長堤」(輪道)を完成させる。当時「輪道」は水防施設であっただけでなく、淀川の渡し場で下船した人たちが西面・富田(高槻市)や大坂方面に往来する道として利用し、また有事には軍事的要害となり、経済的軍事的役割を果たした。

 現在も地名として「鳥飼和道」が残っているが、この「和道」も同じ頃に現在の鳥飼大橋北詰から北上し、安威川の南を東進し、「慶長堤」へと続く長大な堤であった。

 これらの堤の一部は現在も道路として利用されている。

囲み堤の石碑の写真

離宮「鳥養院」跡 摂津市鳥飼上5丁目7 石碑

 淀川は、平安京より天王寺・住吉・高野山・熊野への参詣や、西国の任地へ下る地方官が多く利用していました。天皇・上皇をはじめ多くの官人たちの往来が文芸に残され、当時の淀川筋の光景を偲ぶことができます。

 その中で「曽我物語」の巻第一に、惟喬親王と中将在平業平が懐旧談にふける条で「今昔の事ども申うけたまはるにつけても、御衣の御袂、しぼりもあへさせたまはず、鳥養の院の御遊幸…」とあります。

 また「大和物語」には、亭子院(宇多天皇の号)がここをしばしば訪れたことが書かれています。なお、このあたりの字名が「御所垣内」といわれていたことから、石碑の建っている付近に離宮があったと思われます。

「大和物語」の中に鳥養という題で大江玉淵の娘の歌として

゛あさみどりかひある春にあひぬれば

かすみならぬどたちのぼりけり゛と詠まれています。

離宮「鳥養院」跡の石碑の写真

明和池遺跡 摂津市庄屋1丁目 顕彰札

 この付近は明和池遺跡と呼ばれていました。昭和八年(一九三三年)、庄屋一丁目にあった明和池の底土から弥生と古墳時代の土器が発見され知られるようになりました。

 昭和六十二年に本格的な発掘調査が行われて、七つの時期の地層が認められました。最も古い時代は弥生時代中期のもので、最も新しい時代は戦国時代のものでした。

  1. 弥生時代中期(土器)
  2. 弥生土器後期~古墳時代前期(自然河川、土器)
  3. 古墳時代後期(掘立柱建物跡・土坑・溝、土器)
  4. 平安時代(掘立柱建物跡、土器・石帯)
  5. 鎌倉時代(掘立柱穴・土坑・大溝・溝、土器・陶磁器)
  6. 室町時代(掘立柱穴・土坑、土器・陶磁器)
  7. 戦国時代(大溝・土坑、土器・陶磁器)

 調査の結果、明和池遺跡では、少なくとも二千年前には人間が住んでいたと思われます。

 平成二十二年に吹田操車場跡地の土地区画整備事業に先立つ発掘調査が行われ、弥生時代後期(今から1800~2000年前)の集落跡が発見されました。人々が生活していたことを示すものとして、竪穴建物と呼ばれる地面を掘り下げて床を作った建物が見つかりました。建物のすぐ脇には、当時の川の跡が見つかり、川べりから、生活に使用したと考えられるたくさんの弥生土器が発見されました。

 平成二十三年の発掘調査では古墳時代後期(今から1400~1500年前)の川の跡が発見され、川の中からは、須恵器と呼ばれる青灰色の土器が多量に見つかりました。明和池遺跡の北側には、千里丘陵と呼ばれる広大な丘陵地があり、古墳時代の窯跡がたくさん見つかっています。明和池遺跡の川の中から発見された須恵器も、こうした窯場で作られたものと考えられます。

 調査では、奈良時代~平安時代の川の跡も見つかっており、人面墨書土器と呼ばれる、土器の表面に顔を描いた土器や、土馬などの「まじない」の道具も発見されています。こうした祭祀遺物は、当時の都や役所関係の施設から、発見されることが多く、都との関係が非常に密接であったことが考えられます。

弥生時代の集落跡の写真

平成22年度発掘調査「弥生時代の集落跡」

宗慶島 顕彰札

 宗慶島は、書道家で鳥養に住んでいた鳥養宗慶の名をとったもので、年貢50石相当の川中島で淀川本流の島の一つであった。足利幕府に仕えた宗慶は飯尾流の和洋書道を受け継ぎ、新流を開いて鳥養流を名のった人として知られている。

 島は里芋畑や麦畑として明治29年(1896年)まで耕作されたが、大正10年(1921年)の淀川堤防改修のため、その土砂は採取され姿を消してしまった。