明和池遺跡発掘調査速報

更新日:2021年04月01日

明和池遺跡の最新発掘調査成果

明和池遺跡とは?

 摂津市千里丘7丁目地先には、明和池遺跡(めいわいけいせき)があります。明和年間(1764~1771)の江戸時代中頃に掘られた溜池が名前の由来です。平成22年~平成24年に、吹田操車場跡地の土地区画整理事業に先立つ発掘調査が実施されました。発掘調査の魅力の一つは、地面を掘り、土の中からこれまで知ることのできなかった新しい発見に出会うことです。ここでは、明和池遺跡の最新の発掘調査の成果を通して、明らかとなった摂津市の歴史の一部をご紹介します。

明和池遺跡位置図

明和池遺跡位置図の画像

1.縄文土器の発見

 縄文時代の後期、今から3000~4000年ほど前の縄文土器が川の中から発見されました。中津式土器(なかつしきどき)と呼ばれる縄文土器です。縄文土器は、土器の表面に縄目の文様をつけているのが大きな特徴ですが、中津式土器は、縄文を施した後、沈線という竹や棒で線をつけ、その後ヘラ状の工具で縄文を磨り消し、磨り消した部分と残された部分とで文様帯を構成するといった土器です。縄文を磨り消し、溝状の文様を強調させるといった意味があります。中津式土器は瀬戸内地方にゆかりのある土器で、そうした地方から摂津市にもたらされた可能性が高いものと推定されます。こうした土器が1点出土することで、摂津市域にも縄文時代の人々が生活していた可能性を大きく示唆する材料になったものと考えられます。

縄文土器(中津式土器)の写真

2.弥生時代の集落跡発見

 地面を約2.2メートル掘った下から弥生時代後期(今から1800~2000年前)の集落跡が発見されました。摂津市ではこれまでで一番古い集落跡の発見です。人々が生活していたことを示すものとして竪穴建物(たてあなたてもの)と呼ばれる住居跡が見つかりました。竪穴建物は、現在の住居とは違い、地下に住まいを設けた住居跡です。当時はこうした建物が一般的でした。建物のすぐ脇には、当時の川の跡が見つかり、川べりから生活に使用したと考えられる弥生土器が多数見つかりました。弥生時代に摂津市に住んでいた人々は、こうした河川とうまく付き合いながら生活していた風景が想像できます。

弥生時代の集落跡・川の跡から見つかった弥生土器・川跡断面の写真

3.古墳時代の川の中から多量の須恵器発見

 古墳時代後期(今から1400~1500年前)の川や井戸の跡が確認され、川の跡からは、たくさんの須恵器とよばれる青灰色の焼物が出土しました。その数は、破片も含め3000点以上になります。この川の跡から出土した須恵器の多くには、共通する特徴があります。それは、須恵器を作った際に、焼きが強すぎてゆがんでしまったり、土器どうしがくっついてしまったり、逆に焼きが弱すぎて生焼けになってしまったものなど不良品が目立つことです。

 明和池遺跡の北側には、千里丘陵と呼ばれる千里ニュータウンや万博記念公園を含む吹田・豊中・茨木・箕面市にまたがる広い丘陵地があります。ここは、吹田市や豊中市を中心に古代の一大窯業地として知られ、須恵器を焼いた窯場がたくさん見つかっています。その窯場で造られた須恵器と今回発見された須恵器とは造りがよく似ており、そうした窯場から運ばれてきたものと推定されます。

 今回の調査により、明和池遺跡では、千里丘陵で焼かれた須恵器を、この場所まで運んで良品と不良品とを選別し、不良品を川へ捨てていた可能性が認められました。明和池遺跡に隣接する吹田操車場遺跡には土器を作るための粘土を採掘した粘土取りの穴がたくさん見つかっています。古墳時代、千里丘陵裾部にある平野部一帯は、須恵器の生産に関わった人々と密接な関係をもった地域であったものと考えられます。  

古墳時代の川の跡から見つかった須恵器の写真

人面墨書土器の発見

 昔まだ科学があまり発達していない時代には、人々は干ばつや疫病の流行が、災いをもたらす神や身に付いた穢れが引き起こすものであると信じていました。そこで彼らは「まじない」によってそれらを祓おうとしました。

 発掘調査では、奈良時代の川の中から非常にユニークな土器が発見されました。土器の表面に顔を描いたものですが、人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)と呼ばれています。いったい何に使われたものなのでしょうか?現在有力な説は、病は気からという言葉があるように、大昔においては、病は悪い気が体内に入っておこるものと考えられ、その悪い気を壷の中に吹き込み、蓋をして川に流し、穢れを祓う行為に使用された土器ではないかと考えられています。その他、土馬やミニチュア竈といった同じく「まじない」に使用されたと考えられる遺物が見つかっています。

 こうした祭祀具は、平城京・長岡京などの古代の都や、役所跡を中心に出土することが知られています。今回の発見により、摂津市に、都と交流のある人物が存在した可能性が考えられ、ます。もしかすると摂津市に役所と関連するような施設があったのかも知れません。

人面墨書土器の写真