市のおいたち

更新日:2021年07月07日

地理

 大阪平野の北部に位置する摂津市は、淀川の豊かな自然に育まれ、古くから農耕が盛んで、大阪と京都を結ぶ水陸交通の要所としても重要な役割を担ってきました。
 市域は東西6キロメートル、南北4.5キロメートルで、面積は14.87平方キロメートル。西は大阪市や吹田市、北は茨木市、東は高槻市、南は淀川をはさんで守口市や寝屋川市と接しています。
 市内からは、北西にかけて六甲山や千里丘陵ごしに北摂の山々を、東から南には、生駒や金剛の山並みを望むことができます。気候は瀬戸内式気候帯に属し、四季を通じて穏やかな自然条件に恵まれています。
 市域の大部分は、約5,000年から4,000年前の縄文時代前期末から中期に、淀川水系の沖積作用によって形成されました。淀川の川床や千里丘陵につながる市域北部からは、弥生時代の遺物が出土し、このころには人々の生活が始まっていたと考えられます。

大化前代

 大化前代には、市域は三嶋県(みしまのあがた)に属し、改新のころには「味経宮(あじふのみや)」が営まれていたという説があります。奈良時代には嶋下郡(しましもごおり)に属し、市域北部では条里制が施行されていた可能性を残します。
 淀川は豊かな恵みを与えてくれた一方で、たびたび洪水をおこしました。その対策として、桓武天皇は、785年に比較的水量の少ない三国川と淀川をつなぐことで、水勢を抑える工事を鯵生野(アジフノ・摂津市域の味生・別府の辺り)で行ったという記録が見られます。(続日本紀)
しかし、同年早くも大洪水があり新水路の完成も効果がなかったようです。
 鳥飼付近の淀川氾濫原や中州では、律令政府によって「鳥養牧(とりかいまき)」が設けられ、牛馬が放牧されていました。また、淀川を往来する貴族たちがこの地を停泊や休憩に利用したといわれています。「離宮鳥飼院(りきゅうとりかいいん)」にはしばしば行幸があり、宇多天皇もこの地を愛好したことが「大和物語」にも記されています。

摂関・室町時代

 摂関政治が全盛の11世紀頃には、市域の中央を東西に流れる安威川より北の地域は、藤原氏やその氏寺の興福寺などの荘園となり、後には、安威川以南の低湿地にまで開発が進められました。
 室町時代には、民衆の力が強くなり、産業が栄えるにつれて、淀川は流通路として活気を帯び、千里丘地域を横切る亀岡街道の往来も増加しました。
 戦国時代になると、本市域にも織田信長や中川清秀ら武将の陣が張られました。千里丘にある勝久寺は石山合戦の舞台となり、近くの境川には「流れの馬場」と呼ばれる戦場の跡があります。また、豊臣秀吉の天下統一の際には、太閣検地が実施され、その検地帳も残されています。

江戸時代

 江戸時代には、畿内、西国を支配するための拠点である大阪城の周縁という政治的、経済的に重要な位置であることから、鳥飼(とりかい)地域は高槻藩領、味舌(ました)地域は主に大和国芝村藩に支配されていました。そして三宅(みやけ)地域や味生(あじふ)地域は、幕府領や高槻藩領というように複雑な入り組み支配が行われました。
 明治4年の廃藩置県によって、市域は大阪府管下に統合され、同22年に町村制が施行されて、味舌、鳥飼、三宅、味生の各村が生まれました。当時、現在の市域の人口は約5,800人でした。

明治時代

 明治時代にも、淀川など市域周辺の河川はたびたび決壊し、人々の治水に対する熱意は、明治42年の淀川改修工事の竣工を実現させました。また、明治の末には、味生村において大規模な耕地整理事業が実施されています。

昭和初期

 昭和になると、阪急電鉄京都線が開通し、正雀駅が同3年に開業しました。東海道本線千里丘駅も同13年に完成して、それまでの純農村的な風景が都市的風景に変わる契機となり、本市の発展に大きな影響をおよぼすことになりました。
 昭和10年代には、淀川沿いに紡績人絹や金属工業の大工場が進出しました。慶長以来人々に親しまれた「鳥飼の渡し」がエンジン船になったのもこの頃からです。

戦中・戦後

 戦時中から戦後の復興期にかけて人口は増加を続け、昭和31年9月には、味舌町、味生村、鳥飼村が合併して、人口17,054人の三島町が誕生しました。その後、同35年までに三宅村の一部が編入され、ほぼ現在の市域が形成されました。
 昭和30年代は、戦争中に続く第二期の工場進出ブームとなり、千里丘や正雀には商店街が出現しました。また、戦争中に完成した防空道路と一津屋で交差する府道大阪高槻線が同36年に完成し、安威川以南地域の開発が促進されることになりました。東京オリンピック開催の同39年には、東海道新幹線が開業し、鳥飼に車両基地が建設されました。

昭和40年以降

 昭和40年の国勢調査で、人口が43,479人となり、翌41年11月に府下28番目の市として「摂津市」が誕生しました。
 大阪の都市部から約10キロメートルという立地条件にあり、大阪市やその衛星都市と幹線道路や鉄道で結ばれている本市は、高度経済成長期には、大阪都市圏の発展とともに、住宅・産業都市として人口が急増しました。
 そして現在、「みんなが育む つながりのまち 摂津」を目指し、市民・事業者・行政の協働で「住み続けたいと思える、元気で“ほっと”する温かいまち」づくりに取り組んでいます。